六回裏:沢村栄治雑学図鑑

2008.4.24更新 雑学22を追加

雑学1:あわや幻だった沢村のノーヒットノーラン第1

 これは宇佐美徹也氏が自著『プロ野球記録奇録きろく』の中で紹介されているエピソード。沢村の記録が達成された昭和111936)年はまだ公式記録員制度がなく、連盟から委嘱された新聞記者がつけていた。この日のスコアカードをつけたのは誰がつけたか不明だが、52死からタイガース山口が遊ゴロ失で1塁に生きたと記入されている。ところが翌日の新愛知新聞では「沢村に完封されタ安打1本」となっている。もしこの日のスコアカードを新愛知新聞の記者がつけていたら…。プロ野球第2号のノーヒッターもどうせ沢村だからプロ第1号のノーヒッターという名誉は変わらないものの、通算ノーヒッターは2回で外木場義郎(元カープ)に及ばなかったかもしれない。画像は相反する結果を伝える新愛知新聞と読売新聞。

 新愛知新聞   読売新聞

 

雑学2:沢村はジャイアンツ1の高給取りだった。

 これは故青田昇氏が『サムライたちのプロ野球』で紹介されている。昭和181943)年当時、沢村の月給は270円、主将水原茂が230円、川上哲治が210円、青田昇が150円だったという。一方、昭和91934)年の初任給は120円、支度金は300円。ちなみに東京帝大卒業の官吏の初任給は65円だった。これは荒木信義氏『円でたどる経済史』でのエピソード。昭和9年の方は大金だろうが、昭和18年の方は戦時インフレでずいぶん価値が下がっていただろう。画像は昭和518年に発行された100円札。

 

雑学3:沢村の実家はうどん屋だった。

 屋号は「小田屋」。沢村が生まれた頃は青果商だったが、後に乾麺の製造・販売を始めた。大スターになってからも実家に戻ると手伝いで出前持ちをしていたという。いかにも関西人らしい飾り気のなさだ。

 

雑学4:沢村の背番号は14だけではない。

 沢村の背番号といえば永久欠番になった14番だが、最初から最後までそうだったわけではない。昭和9年の日米野球のときは8番で、第1回米国遠征のときは漢字の四(十七という説もある)。下の映像は第1回米国遠征の際の写真だが、沢村は総監督市岡忠雄のすぐ左側におり(右側はスタルヒン)、十四番の選手(十三番と二番の選手の間)は別にいるから、確かに14番以外の背番号である。帰国してからの全国巡業では17番をつけている。昭和11年の第2回米国遠征から引退までは14番。では、中学時代は何番か?エースだから当然1番だろうと思った人はまだまだ昔の野球を知らない。戦前の中等野球では全ての選手に背番号なし、が正解。大学野球にいたっては昭和30年代まで背番号がなく、長嶋茂雄の8号本塁打の映像を見ても長嶋の背に番号はない。

 

雑学5:沢村の墓はボール型。

 沢村の墓は伊勢市(沢村の生家のある旧宇治山田市)にあり、なんとボール型。沢村栄治モニュメント参照。すぐそばに宿命のライバルである西村幸生(宇治山田小‐山田中‐関西大‐タイガース‐戦死)の墓がある。墓標には「故 陸軍兵長 沢村栄治之墓」とあり、裏面には「日本巨人軍投手トシテ米国ヘ遠征スルコト二度野球界ノ重鎮タリ而シテ三度出征輝ク武勲ヲタテ昭和十九年十二月二日台湾沖ニ於テ壮烈ナル戦死ヲ遂グ」とある。揮毫は藤田一雄。海に沈んだ沢村に遺骨はないので、髪の毛と爪、そしていくつかの記念ボールが埋葬されている。画像は沢村のサインボール。

 

雑学6:沢村の妻の名は優子?良子?

沢村の妻の名はほとんどの文献で「酒井優子」となっているが、沢村と最も親密な文士だったと思われる鈴木惣太郎の『不滅の大投手沢村栄治』では「米井良子」という名前で登場している。これは沢村の結婚が身分違いであり、戦後本名を出すのに何か差し障りがあったためと思われる。優子は四国の素封家の娘で東京女子大出の才媛、沢村は旅の芝居一座などと同一視され蔑視されていた職業野球選手であり、二人の交際・結婚には優子の両親の強い反対があったという。古い文献では名前を書いていないものが多いのも同じ理由であろう。沢村は自分のグラブに「優」の文字を書き、人に問われると「優勝の優や」と答えていたという。画像は東京女子大の講義風景で、講師は三笠宮。

 

雑学7:投げても投げなくても暴動の対平安中。

 昭和9年の選手権大会予選、京津大会への進出が決まっていた京都商業は、京都大会決勝対平安中で沢村を休ませ、第2投手田中を登板させて敗れた。これに京商ファンが激怒し、「沢村出て来い!」「腰本(コーチ)を出せ!」と叫びながら京商ベンチに殺到した。一方平安ファンは沢村が登板しなかったのをバカにされたと考え、「沢村は慢心している」「沢村は生意気だ」と非難しながら京商ベンチに押し寄せた。沢村は多数の警官に保護されてやっと下宿に帰ることが出来た。京津大会決勝対平安中、今度は沢村が登板して7-0で完封すると、「沢村が予選で休んで優勝戦に出て来たのは卑怯である」と平安ファンが激昂、「沢村の右腕を折れ!」「沢村を叩き殺せ!」と叫びながら京商ベンチに殺到、沢村はまたも警官に守られながら閉会式を過ごし、下宿に送り返された。そのときのことをのち鈴木惣太郎に「優勝旗をもらうときにがたがたふるえていたのや…ほんまに嬉しいのと恐ろしいのと、ごっちゃや」と語ったという。観客の興奮はこのころ横行していた野球賭博が関係していたらしい。画像は戦前の全盛期昭和13年の平安中ナイン。

 

雑学8:球投げ屋から締め出される。

  昭和9年の米国遠征のときのこと。サンフランシスコにはたくさんの球投げ屋があり、綿で作られたボールを標的に命中させると賞品がもらえた。沢村はすぐにコツを覚えて百発百中で賞品をせしめ、とうとうどこの店からも出入り禁止になってしまった。

 

雑学9:沢村のラブレターは前川八郎の代作。

  沢村は後に夫人となる恋人優子によくラブレターを出したが、中身はジャイアンツの投手前川八郎(国学院大の国文科卒業)、封筒の宛名は中島康治(松本商業‐ジャイアンツ)が書いていた。最初はジャイアンツで一番字がうまい中島に白羽の矢が立ったが、「そんな甘ったるい文章は書けん」と断られ、宛名だけ書いてもらい、結局前川が「シラノ・ド・ベルジュラック(鼻が極端に大きくてそのコンプレックスでまともな恋愛ができない主人公が、色男とヒロインの恋愛を取り持つうちに、ヒロインにのめりこんでいく喜悲劇。)」の劇の脚本を参考にして代筆したという。画像は沢村と前川八郎。

 

雑学10:沢村の「憧れの投手」は青柴憲一。

  京都商時代の沢村の目標は、当時立命館大で快速球を謳われた青柴憲一だった。青柴と沢村はのちにジャイアンツでチームメートとなり、主従逆転してしまったが、長らくプロ野球の審判として活躍した島秀之助は、戦前の投手で印象に残った選手として、沢村などとともに青柴を挙げている。青柴は平壌第一陸軍病院で戦病死した。戦没野球選手慰霊参照。画像は青柴憲一。

 

雑学11:沢村はマラリア持ちだった。

  沢村は出征した中国戦線でマラリアに罹患し、それ以来長らく苦しんでいた。マラリアはマラリア原虫による寄生虫病で、発熱を反復する。悪性の熱帯マラリアでは数日で脳血管障害を起こし、死亡する。当時既に塩酸キニーネという特効薬が発見されていたが、これとて完治させるものではなく、何度もグラウンドで倒れたという。沢村の選手寿命を縮めた戦争の影は手榴弾投げだけではないのだ。画像はマラリア原虫(東京大学医科学研究所HPより転載)。

 マラリア原虫

 

雑学12:沢村は性病もちだった。

  これは確認できるところでは牛島秀彦『消えた春』にのみサラリと書かれているエピソードで、聞き捨てならないところだ。が、沢村の頃のジャイアンツの本拠地洲崎球場は洲崎遊郭の隣に建てられた球場。沢村の純情さはいろいろな人の証言があるが、恋人への純粋さと商売女と寝ることが少しの矛盾もなく共存していたのが当時の男。また、ジャイアンツのエースということで酒場で随分モテたらしい。プロよりセミプロの方が性が悪いのは昔も今も同じ。ただ、沢村の遺児が先天性梅毒だったという話も聞かないし、ソースを探求する必要のある話ではある。画像は梅毒スピロヘータ(感染症発生動向調査週報HPより転載)。

 梅毒スピロヘータ(梅毒トレポネーマ)

 

雑学13:沢村の手本はマシューソン?ハッベル?

  沢村の「足上げ」フォームの手本には2説あって、ニューヨーク・ジャイアンツの名投手クリスティー・マシューソンという説と、同じくN・ジャイアンツのカール・ハッベルという説がある。チームが同じで、どちらも速球のほかに落ちるシュートを得意にしていた。マシューソンのは魔球「フェード・アゥエイ」と呼ばれ、ハッベルは「スクリューボールの元祖」といわれる。どちらかの説が混同して勘違いしているのだろう。写真で見る限りでは股の間にグラブとボールを抱え込んでいるハッベルの方が沢村に似ていると思うのだが…。ビデオなどない時代には鏡に映して真似しただろうから、左のハッベルの方が右の沢村には真似しやすかっただろうし。

2003.2こうは言ったものの、NHKBS番組『大リーグ忘れ得ぬ瞬間』で見たハッベルはどう考えても足を上げていない。腕の振りもサイドに近いスリークォーターだし。あるいは当時よくあったようにカメラマンの注文に応じるときだけ足を上げていて、それを沢村が真似たのだろうか。この番組では確かにマシューソンは足を上げて投げているが。画像は左がマシューソン、右がハッベル。

C. Mathewson  C. Hubbell

 

雑学14:サイドスローだった晩年の沢村。

  沢村の肩は2度の出征で完全に壊れ、選手生活晩年は下手に近いサイド・ハンドだった。写真は横手で投げる晩年の沢村。なんともいえない痛々しさが漂う。

 

雑学15:台湾沖に沈んだ沢村。

  越智正典氏『誰も書けなかった巨人軍』にあるエピソード。昭和51年のこと、中島治康(松本商-早稲田大-ジャイアンツ)と重松通雄(越智中-阪急)の会話。

中島「わしは1912月に台湾の基隆におってな。ある日、港の入り口で輸送船が雷撃され、あっという間に沈んでな。しばらくすると、助かった兵隊が油だらけになって泳いできたが、いまの船に沢村さんが乗っておりました…といっとった。かわいそうなことをしたな。なんとか助からなかったかな。」

重松「班長(中島)!わしもあのとき、あそこにおったんですわ。船尾を立てて沈んで行った船でしょ。助かった兵隊が、沢村さんが乗っとったと、みんなそういうとったですよ。」

それから二人は黙った。画像は重松道雄。

 

雑学16:沢村は甘いものが大好きで、下戸だった。

  京都商業の1年後輩、金子澄雄氏の証言。沢村は優しい先輩で、「甘いものが大好きで、合宿所でよく、まんじゅうを食べさせてもらった。いつだったか、こっそり二人で餅菓子を食べているところを監督に見つかって、こっぴどくしかられたこともあった」という。プロ入りしてからも合宿所でよく甘いお菓子を食べていたそうだ。酒はからきしダメだったそうだが、入営を控えた12年秋、年度優勝を逃がした後の納会では珍しく酔い、「兵役から帰ったらまたノーヒットノーランをやってみせる」とクダをまいていたという。画像は12年秋の沢村。

 

雑学17:立ち上がりが悪かった沢村。

  速球投手の常として、沢村もまた立ち上がりが悪かった。上述の金子氏によると、「三回までが危ない。それを乗り切れば、当時は『もう勝った』と思っていた」という。実際、沢村が優勝候補と騒がれながらもイチコロ負けした昭和9年夏の甲子園対鳥取一中戦でも、序盤に味方のエラーも絡めて3点を失い、優勝の野望が費えている。プロ入りしてからも立ち上がりの失点が目立つ。最近の投手は立ち上がりの失点を恐れてウォームアップを念入りにし過ぎるから9回持たないのだろうか?画像は昭和8年春甲子園の対明石中戦での沢村。

 

雑学18:沢村が造っていたのは飛行艇の燃料タンク。

 ジャイアンツから解雇された沢村は、川西飛行機の鳴尾工場に勤務していた。ここでは二式大艇という飛行艇の燃料タンクを組み立てていたという。鳴尾工場には職業野球選手60人が関西野球勤労報国団として動員されていた。画像は二式大艇。

 

雑学19:第2回米国遠征ではガリガリにやせた沢村。

 第2回米国遠征は、第1回と違ってあまり日系人のいない土地を回ったため、選手たちは食事に苦しんだ。特に沢村はガリガリにやせてしまったという。

「…アリゾナに踏み入ってからわれわれは米飯から全く糧道を絶たれてしまった。ひれは同胞がほとんど居住していないためであるが、その結果一行の者は平均20ポンド(9kg)前後体重が減少し、沢村の如きは30ポンド(14kg)も減ってほほはコケ落ちて容貌が一変するという惨めさで、また打球の大部分がバットに力が入らないため右翼方面に飛ぶという有様だった」(昭和1167日付読売新聞)

画像はおひつに入ったご飯。

 

雑学20:「沢村選手の美談」

 昭和164月『野球界』の記事(一部仮名遣いと漢字を直した)

 「昨秋以来しきりと沢村投手が、巨人軍を退くという噂が巷間に流布されて、センセーションを巻き起こしていたが、当の沢村選手はこの噂を裏切って九州春日原球場における冬季練習に参加、名誉回復に営々として精進を続けている。

 過日九州の大牟田にこもって、冬季訓練を行っている、名古屋軍と長崎に帯同試合を行っての帰途車中において、この沢村選手の聞くも嬉しい美談がある。

 沢村選手が、長崎で買い求めた名物のカステラを二、三の仲の良い選手と食べようとして包みを開けていると、ちょうど汽車が矢部川駅に停車して、同駅から乗車した見るからにみすぼらしい、ヨボヨボの親子連れがあるのに気づいた同選手は、いたくこの親子に同情を寄せ、開けかけたその包みを、再び包みなおして「坊やにあげよう」とそっくりそのまま与えてしまった。並み居る選手たちも沢村選手のこの思いやりに「さすがは戦線で苦労してきた帰還勇士だけある。沢村デカシタぞ」と大いに感激させたそうだが、沢村選手のこの美談は専らの評判となっている。」

 画像は長崎名物カステラ。

 

雑学21:沢村は一時行方不明になっていた?

 これも『野球界』昭和15年の記事。

 「沢村投手はどこにいる!?

昨春、戦線より帰還して、巨人軍に復帰した沢村投手は、大いに活躍を期待されていたが、夏のリーグ戦においては名古屋軍を無安打無得点に退けて、往年の片鱗を示す健闘ぶりを見せてファンを大いに喜ばせてくれた。

 ところが、秋のリーグ戦においては、開幕日の対名古屋軍戦にもろくも敗戦投手となってしまったが、以来どうしたわけか、全然ベンチにも顔を出さなくなってしまった。このため沢村は阪神に入るのだとか、あるいは既に阪神と契約したとかいう噂がしきりに飛んでいた。巨人では絶対にそんなことはないと否定しているが、現在沢村が大阪の某方面に隠れていることは事実である。

 果たして問題の沢村が、春のリーグ戦に依然巨人軍の選手として出場するか、あるいは阪神その他のチームに入るかは大いに興味ある問題である。」

 沢村は阪神のほかに南海・阪急にも移籍の噂があった。もし沢村が他チームに移籍していたとしたら、プロ野球選手のその後のトレードに対するメンタリティもずいぶん違うものになっていたかもしれない。

 画像は一回目の出征から帰還後の沢村。

 

雑学22:沢村のサインは「沢村」ではなかった。

 米国遠征での出来事。人気者になってあまりにもたくさんのサインを書かなければならなかった沢村は、ローマ字で”Eiji Sawamura”と書いたり漢字で「沢村栄治」と書いたりするのに飽きてしまい、当時の人気女優の名前を書いていたという。その名は「田中絹代」。酔漢からサインを強要されたときには「馬鹿野郎」と書いたこともあったという。漢字の通じない米国ならではのエピソードであるが、この人、かなり茶目っ気のある人物だったのではないだろうか。画像は1937年東西対抗戦のサインボール(野球体育博物館所蔵)。右側のボールの中央にあるのが沢村のサインである。

 

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七回表:沢村栄治のライバルたち

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